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いきなり訳分からないネタで大変恐縮だが、今回は少し図書館の機能や役割について深く掘り下げてみたいと思う。

この間海老名の図書館分館の館長になってしもた谷一さんと猪谷さんのトークバトルがあったそうである。バトルとは名ばかりで「図書館こうなるといいよね」的な話になったそうだが、道場破りしに行ってるわけでもないのでフレンドリーに話すのは当たり前なのである(大人だからネ!)

だが、このトークバトルの実況を聞いて、少なからず谷一さんと猪谷さんの図書館像の違いも見受けられたかと思うのよ。二人とも大人だからその違いの根幹・・・つまり図書館に求めるものとか、図書館の根源的な意味合いについて「何が違うのか」を掘り下げるようなことはしない。冗談でもなんでもなく、たかが図書館と思うであろうが「違いを探る」というのはユダヤ教とキリスト教とイスラム教を同じテーブルに着かせて「そもそも君らの奉じる神は唯一ひとつな訳だけども・・・」とやり始める行為に等しい。

が、勝手気ままな図書館ブログの開設者は勝手に「図書館の根本機能は何か」を因数分解という手法を用いて探ってみてはどうかなどと考えたのだ。お気楽おじさんは勝手にやるのだ。(いや、完全に解き明かそうなどと考えてないからできるのだが)

今日の朝Tweetした内容から引用してみるが・・・・

やはり「図書館」を一度因数分解し、どんな素数で構成されてるか考えるべきか。 TSUTAYA図書館は図書館に含まれるべき素数の幾つかが足り無いから図書館足り得無いのだと推察してる。
図書館が6の倍数で構成されてるなら、12も18も24も図書館の要件を満たすが、多分TSUTAYA図書館は15とか14の倍数で「微妙に図書館構成に欠かせない要素を含まない」のだろう。135も140も数字としてデカイが6の倍数ではない。
武蔵野プレイスとかは240とかな訳だが、キチンと6の倍数なんで色々他の要素(他の素養)が混じっても6で割り切れる。CCCは数字のデカさだけ観て147とかの規模を作り上げたが6で割り切れない…図書館必須の要素を欠くから図書館として欠格なのだろう。
ただ数字のデカさだけ見れば150(2×3×5×5)と147(3×7×7)はたった3の数値の差。大した違いは無いように見えるが、前者には2と3と5と言う素数を含むが、後者には3と7しか素数が無い。2や5が図書館として必須の要素なら後者は図書館足り得ない訳だ。

図書館全てに共通する「最大公約数」があるのだとしたら、それこそが図書館の本質部分であろう。最大公約数の中に含まれる素数に当たる要素こそが「全ての図書館が備えるべき要素」であり、因数分解によってそれが可視化される。そして同じように「Tsutaya図書館」を因数分解して上記の「全ての図書館が備えるべき要素」の内何が欠けてるか分かればTsutaya図書館を改善する方法が見つかる・・・・要素足せばいいんだよね。

でだ。
実際に図書館の諸要素を全図書館に当たって解析していくとおじさんは図書館学の権威になれるぐらいに図書館に習熟することになるので、それは止めておく。40代からそんな方面に転職するほどの根性は流石の私にも無いのである。

ある程度アウトラインを示してお茶を濁しておこう。
一般的に(公共)図書館は、教育委員会の下に置かれた「生涯教育施設」の一つであり、教育の場である。そこには何万冊もの本が置かれ、適切に収集し保存され、閲覧や貸し出しができることになっている。

昨今ではライフスタイル分類だのNDCだのの分類について大きな耳目を集めているが、本質的に図書館において「欠くべきではない必須の要素」だろうか?
ツタヤ分類は駄目だ、NDCじゃなきゃ・・・・何て言う人は図書館界隈では少ない。だってNDCって日本独自の発展を遂げた分類法(日本十進分類法の略がNDCである)で、アメリカではNDC使ってないもの(笑)
NDCは実のところ「貸し出しや閲覧を迅速かつ探求の目的に適合した形で提供するための手段」であって目的ではない。たぶん現段階では存在しないと思うが、NDCよりもTsutayaのライフスタイル分類の方が迅速かつ適切に資料を選択できる人が大多数なら、別に分類がライフスタイル分類でも良い。ていうか版形で分類しようが出版社別だろうがどーでもいいのだ。その目的とする所を満たせれば。
ただ、どーにもライフスタイル分類は海老名の事例を見る限り「そもそもライフスタイル分類としてしっかり分類されていない」のは別にしても、分類が目的になってしまって本来その先にある貸し出しや閲覧を迅速かつ探求の目的に適合した形で提供するが亜空間にサヨナラしてしまっている感がある。事実CCCやツタヤ自身が「ライフスタイル分類だからこれができる」を喧伝して無いもんね。手段を目的にしたらいかんがね。
今のところ公共図書館界隈では「日本国内向けでNDCが一番良さそうだからNDCにしているだけ」であって、スパコン京の56億倍高性能なハンドヘルドコンピュータを図書館で貸し出し、それに問い合わせると光の速さで必要な本が分かるなら、そのハンドヘルドコンピュータでの検索に最適な分類でも別に構わないっちゃ構わない。実際国会図書館ではNDLCを使用しているなんて記述もある。

では、書架はどうだろう? 開架だ閉架だなんだと煩いのであるが、開架であること/開架でできるだけ多くの書籍を展示するのは図書館に必須の機能だろうか?
これも割りとどーでもいいのである。やっぱり国会図書館の話になるが、あそこは大部分の資料が閉架収納なのである。あそこの本を全部開架にしたらどえらい事になりますぜ(苦笑) 開架にできるのは単純に収納点数が少ないからであって、図書館機能を損なわない程度に開架で配置しても床が足りるからといえるだろう。たくさん本が並んでるのを見ると凄く思えるのは人間の感性の問題だから仕方が無いにしても、それなら図書館の周囲に閉架書庫を巡らせて全部ガラス張りにでもしたらどうか。高所で取りにくいのも自動書庫で機械操作での取り出しにしたら楽っちゃ楽だぞ?金がかかるので・・・・というならトリックアートで壁全面書架のような壁紙でも張って置けばいいのである。

前出の文で(公共)をカッコ付で書いたのだが、ここはどうだろう? 公共図書館には私設図書館には無い何か特殊な要素があるだろうか?
公共であり「公に共にする」だから、全ての人に開かれた場所である必要はあるだろう。良くツタヤの本棚が高いのが問題視されるが(主に、私によって)、公共施設なんだから足が不自由だろうと背が高かかろうと低かろうと同じように使いやすい必要はあるかと思う。別にこれは背丈の問題ではなく、同様にして視覚に問題がある人にも同じように使い易くなくてはならない。おじさんの地元の川口中央図書館には視覚障害者向けに点字本のコーナーあったりするが、これも公共である為に尽力した結果であろう。欲を言えば全ての資料が点字でも読めればナイスなんだが、そこまでは達していないのがなんとも。ツタヤの運営する図書館ではその辺配慮されているのだろうか?

こんな感じで見ていくと、ツタヤ図書館は「カッコイイ」という要素だけ二つ三つ備えてかさ上げし、肝心の公共性とかその辺を置いてけぼりにしたりしているのが問題の根幹なんではないかなと。

恐らくは、凄さが数値化して表示される「スゲェ」スカウターで見ると海老名の図書館は147とか結構高い数値を出してはいるのだろう、武蔵野プレイスが150とかに達していると考えれば異常に高い数値ではある。スゲェことはスゲェんだと思う。ただ、その内情を因数分解してみると「カッコイイ」x「カッコイイ」x「スタバ付」x「本沢山」で、武蔵野プレイスみたいに「公共性」x「教育施設」x「本沢山」x「高い資料性」みたいな物と全然異なり、「カッコイイ」で底上げされているだけで図書館に本質的に求められる機能が全然足りてないから問題視されているのだと思う。
また、あの手の図書館を褒める人々は「スゲェスカウター」でしか物を見ず、その要素を分解して評価していないのだとしたら、賛成派と否定派の評価の仕方が異なる点も説明が付くのではないか。

そして、両者が実際に歩み寄って「図書館として、どうか」を考える際にはこの「図書館を因数分解して要素に分け、要素ごとの『図書館にとっての重要性』を評価していくこと」が重要なのではあるまいか。

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