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以前某所にアップした記事に手直しして再アップ

夕闇迫る雲の上
いつも一羽で飛んでいる
鷹はきっと悲しかろう

上記はスタジオジブリの宮崎ゴローちゃんが「ゲド戦記」を映画化した時に作詞したテルーの唄の一部である。
鷹は、悲しいのだろうか?

えー・・・・生態学的な見地から申し上げます。かなり確実なラインで鷹は悲しくないです
鷹は生態系においてはかなり上位の捕食者であり、猛禽類です。もしも鷹の類がさびしんぼうで仲間と群れて飛ぶ事を願ったり、実際群れてたりすると多分鷹は絶滅します。猛禽類ってテリトリー広いんだけど、それは彼らが生きていく為の餌とかを取得するのに「それだけの広い狩り場が必要」であるからで、二羽三羽でそのテリトリーを共有すると、食い物食いつくして死に絶えちゃいます。一定量の自然が養う事の出来る生物には、定数があるんですわ。
故に、彼らはいつも一羽で飛び続けます。夕闇迫る雲の上で飛び続けるのは大変に危険な行為なんですが(彼らは鳥目であり、夜間視力はちょっと劣る)、それでも飛ばないといけないのは、まだ彼が夕餉にありついていないからかも知れません。
もし悲しいとしたら、一人で居る事が悲しいのではなく「腹減ってひもじくて悲しい」だと思うですよ。私は。
人間が孤独を楽しめない理由ってーのも、人間が根本的に集団生活を営むであり、社会生活を送る事が基本フォーマットとして組み込まれているからだと思うんですね。だから基本的に集団をつくるし、集団の中で役割を果たし、一定の地位を占める事を希求すると思うんですわ。情感もへったくれも無く「それは生き物としての暮らし方に起因する問題」であり、ワンコが「その家族の中で一番の権力者の近くで眠りたがる」のと同じで「それが自然な事」ではあると思うんですよ。
その基本フォーマットの違いを理解せずに、自分のフォーマットで鷹の気持ちを理解できると考える辺りが、不味い。

これがゲド戦記のテーマソングでなければ別に私はこんなに突っ込まないんです。飛んでいる鳥に感情移入し、ある意味では超越者の視点で鷹の悲しみをセンチメンタルに歌ってみせるのは、良い。
しかしこれがゲド戦記のテーマソングであるという所にゴローちゃんのダメっぽさが感じ取れてしまい、盛大にDisってしまうのです。即ちそれはゲド戦記のテーマを理解していないのと同義だからなのです。

ゲド戦記の「アースシー」という世界では、他の生物に変身する呪文が割とメジャーであるという設定になっています。ただしこの呪文は非常に危険で、動物に変化すると思考や記憶までその動物の様になって行き、最終的にはその動物になってしまう(元に戻れなくなる)って設定があるんですね。変身と言っても形だけを変えるのではなく(形だけを変える幻術としてのものもあるんだけど)、本当に身も心も別のものに変えてしまう、全く別の名前の存在になってしまうのが、アースシーにおける「変身の呪文」なのです。(外伝の「かわうそ」もこの悲劇を扱ったお話です)

ゲドの少年期の話である「影との戦い」において、北方の雪景色の中でゲドは恐るべき敵から逃れる為に猛禽類に変身して逃げ出します。そして我を忘れて逃げ続ける間に、本当に我を忘れて猛禽の心を持ち始めてしまう。
そんな「8割ぐらいトリになってしまったゲド」の微かに残る人間の気持ちは、彼自身をロークの魔法学院でも、実家でもなく「偉大なる師匠であるオジオン様」の元に運ぶのです。

実はゲド、少年期はオジオン様を余り好いてはいなかった。魔法を教えてくれるというのでゲドはオジオン様の所に行くんだけど、オジオン様は魔法なんか教えないのです。これは物語の根幹に関わる「名前」の神秘性にも関連してくるところなんだけど、とりあえずそこは今のところは無視していてもいい。
オジオン様は野を歩いて野草の名前を教え、それがどんな物かを教え、割とずっと山歩きするんですよ。若くて才能のあるゲドはこれが気に食わない。実際ロークに行ったら凄いスピードで魔法覚えるしね! 後の大賢者様だしね! そこで有頂天になったせいでえらい事になるんだけどもね!(この「えらいこと」が正に「影との戦い」なのだ)
その後色々な事件があり、恐らく彼は色々と考えを改めたであろう事は予想に難くない。彼は若さと馬鹿さ故にオジオン様の偉大さや素晴らしさを把握できなかったのだが、色々学ぶ事でオジオン様の偉大さ、素晴らしさを再確認していくのです。
ほぼ鳥になってた彼が何故オジオン様へと向かったかという部分で、彼がどれだけオジオン様を慕っていたか、その敬服の度合いが分かるって構図なんだけど・・・・

ゴローちゃんは鷹も人間と同じ様に仲間と群れていないと寂しいんじゃねーの? とテナーに歌わせてしまうのである。無神経にも。

いやいや、ゴローちゃんはそれも分かっているんだけど、無垢な少女が人間の優しい目で孤独な鷹を慈しんでる歌なんだよ! という向きもあるだろう。だがしかしこれも不味いのだ。テルー(テハヌー)は物語後半の構造に深く関与する存在の一人で、竜と人間の間に位置する竜人間である。彼女は人間と竜の中間層に位置する存在であり、生まれながらにして古代の呪文を行使でき、人間とは違う視点を持っている。彼らはドラゴンと人間の両方の視点を同時に持ち得る。(これが創世神話のカギを握っている設定になってるのだ!)

ゲド戦記の初期三部作の間では、異なるものは異なる視点で物を見て、同じ世界を異なるように見る、それは相対的なものでどちらが優位でどちらが劣位というものでもない。ただただ「違う」のだという視点が貫かれています。だから故に初期三部作の視点で申せば、人間は鷹の思いを慮れない。彼らは人間とは異なる眼で世界を見て、世界に生きる。ある意味では突き放した、ある意味では救いのない世界観だと思う。

少し間を置いて公開された新たな物語の中では、二つの文化圏に存在する2つの死生観が「共に不完全な状態であった」事が明かされ、互いに協力して「第三の新しい死生観を見つけ出す」 その際にキーとなるのが人間とは全く異なる存在である竜と人間の間に存在するテルー達であった・・・・んですが。
同時に二つの視点を持ち得るテルーが、生得的に「人間と他の生物は異なる世界の見方をしていて、人間の者の考え方はそのまま他の生物に当てはめる事が出来ない」という事を知っている彼女が、何故に鷹は人間と同じ様に寂しがると思うのであろうか?!

ゴローちゃんはゲド戦記大好きだって事になっているが、余り深く読み込んでないというか・・・・どーもちゃんとゲド戦記読んでない気がする。その辺がアーシュラばーちゃんに「あれは別の作品」と断言せざるを得ない結果を生んだのではあるまいか。まー確かに重要な設定完全に無視しちゃってるしねぇ・・・・ドラクエの設定でFFのシステム走らせても、それはドラクエになっちゃうと思うんですよー。それは既にFFじゃねーんじゃねーの? みたいな感じ?

異なる存在は異なる思考を持つ。
鷹は鷹の物の考え方や物の見方をし、人間は人間の物の考え方、見方をする。これはゲド戦記における結構重要なテーマであり、その相互の差異をどうやって埋めていくか(埋める努力をするか)ってのがこの作品シリーズの大きなテーマの一つであるはずなのに、鷹の心を人間の目と頭で類推しちゃうのはどーしたもんか。

それはそれであり、これではない。
単純かつ当然の話なんだけど、人間は想像力を持つが故に、時として誤った・・・・「他の事物も『私』と同じ様に考える」なんて事を考える。
鷹の見た物を人間の脳で解釈したらいかんのよ。
鷹を思うのであれば、鷹の見た物を鷹の様に考えねばならない。

高慢な才気あふれる少年だったゲド。
その高慢さがある種の災厄を呼び出してしまい、それと懸命に戦う中で、成長を遂げたゲド。
そして危険な術(変身の術)を用いて逃げ帰ったオジオン様の家で、久々に出会った師匠に声をかけられたゲドは、はっきりとこう伝えます。

「はい、出ていった時と同じ、愚か者のままで。」

ここからゲドと影の本格的な戦いが始まり、これまで影に対する姿勢が一貫しなかったゲドの「追跡」が始まるこのシーン。その契機の前の「彼が変わりつつある瞬間」のエピソードを無視して「鷹はきっと悲しかろ」

むしろおじさんが悲しい。

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