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今、台湾に向かう機内でこの文章を記載している。(飛行機内で書き終えようとしたら、結局台湾国内でもまるで締め切りに追われる作家のごとくタイプしなければならなかったのがアレであるなぁ、みたいな)

本Blogは本ブログであるが図書館振興ブログでもあり、最初の方で投稿したが「図書館で調べて書く」が基本スタンスになっている。今回取り上げる「つながる図書館」も地元の図書館で一回予約して(しかもかなり待たされて!)借りて読んだ。実際私が図書館で本を「借りて」読むなんてのは数年ぶりの事だったりする。猪谷氏におかれては「出たばかりの本を図書館で貸し出ししてるのはビミョー」であるかと思うが、本ブログの基本姿勢の部分なのでご理解いただきた・・・
けないよね。なんとその頃急に忙しくなって折角「つながる図書館」借りて読んだのに「まとまった文章としての」書評書いてなかったんだよ。なんと言うか「単なる娯楽読み」。マジでごめんなさい。

で、時は一年以上流れて・・・・

つながる図書館刊行時からある声ではあるが、つながる図書館評として「武雄のツタヤ図書館を明確に否定していない」なんてのがある。何人がこの様な主張をしているのか分からないが、私はツイッタランドなどで何度かこの意見目にしている。
個人的には「え、超否定してね? 伊万里との対比で嫌が上にも武雄ダメって書いてね?」なんだけど、行間に匂わすだけではなくはっきり簡潔かつ明瞭に誰にでも「武雄の図書館は駄目である」と理解できるように書かないとダメなんだと。

なんかめんどくせー事になってんなー。しかも「武雄図書館否定派」の中にこんなんおるんがめんどくせーなー。

そう、ここに関わるのは「武雄系図書館が蔓延すると困るマン」である私にとって、フレンドファイアをしなければいけないという事なのだ。できれば厄介ごとなんぞ背負いたくない。背負いたくないがこのまま続けると「たけお問題関わってる派めんどくせぇ」という意見を猪谷氏に持たせてしまうし、自浄機能というと語弊があるが、お仲間内であろうと敵方であろうとダメなものはダメであり、いかんもんはイカンのであると言えないクラスタになってしまうのである。大変上から目線で恐縮であるが、今後も意見のすり合わせを行っていける、修正力を持つクラスタにするには時にしっかり対立意見も出さねばならないと思うんだよね。

で、火中の栗拾いに行きました。
よりにもよって、くそ忙しいこのタイミングで。

つながる図書館の購入
今回、朝もはよから群馬や栃木を走り回り、昼にやっと川口戻って図書館に駆け込んだ。つながる図書館中央図書館にある筈や、なんせ自分で借りてるし! も一回読むからかーしーてー!
・・・・呆れた事に貸し出し中だった。おのれやってくれた喃。発行から結構経つのにまだ借りる奴おるんか! お前少しは書架の中でじっとしてろよ!全然書架の中におらんやんけ!
そこ行くとあれだよ、今回初めて見かけた(多分新規に入れたのであろう)「沸騰!図書館」はアレよ。
まるで汚れなく、折り目もなく、新ピカ同様で書架の中に鎮座してるやで。このどっしり感。うーん見事なベンチウォーマー
この圧倒的なグレシャム感を、貴方にも感じて欲しい。
台湾行く移動時間で本読んで、飛行機の中で記事書くから「今!」Just Nowでつながる図書館必要なんですが図書館で借りられない・・・・ぐぬぬぬぬ仕方がない、ブログ趣旨には反するが「つながる図書館」買うやで!
幸い川口中央図書館入ってるビルには本屋さん入ってるんじゃ。ちっと「最新の本」ではないけど置いてあるかなー(正直、置いてないと思ってた。記事書くの今回無理くせぇなと)
所があったのである。ちゃーんとあったのである。
我らが川口市民は発行から随分経っても図書館で「つながる図書館」読むし、沸騰図書館はあんま読まれてないみたいだし、本屋さんは沸騰図書館返本してもつながる図書館は取っといてくれるのである!
ビバ川口!
ブラボーいがやん!
チャーリー ブラウンで
デルタフォースですわ!

で、買って「書評書く為に」がっつり読んでみたよと。

つながる図書館が伝えたい事
余程とんちきな本でも無い限り、普通は巻頭言とかに「この本はこんな感じで書きましたー」とか、本の伝えたい事、目指すこと、何を目的として書いたかなんてのが記載されてたりしますよね。つながる図書館も同じで、本めくってすぐに「この本の目的」が記載されている。

今、この書籍を書いている今。図書館は大きく変貌している。特に図書館と「その他」が連携して問題解決に向かったり、市民と繋がって強固な絆を結んだり、ビジネス支援してたりしてる。これには政府主導の「問題解決型図書館」構想であるとか、民間委託問題に対する図書館と司書側の危機感が影響していると考えられる。
この「図書館のトレンドが変わりつつある今」、他の図書館はどんな取り組みしているか見てみよう・・・・(大体P.15のラス行からプロローグの締めの部分が上記の内容)

大変明瞭かつ率直に著者のやりたい事、伝えたい事が記載されている。そして本書の半分ぐらいはこの様な「普通はあまり見に行かない、他所の図書館の取り組み」を紹介する記事になっている。この本のメインテーマはここなのだ。

恐らくは初期構成案では純粋に「各地の図書館の最新の取り組みを紹介する」という構成だったと思うのだが、伊万里vs武雄パートを後から挿入したか増量し、更に論旨を「武雄式は良くないよね?」という問いに対し、必ず(7~8割は)首を縦に振らせるように再構成したのではないかと思われた。改めて読み直すとむしろ武雄の事に対してしつこ過ぎないか? とまで感じた(1年前ぐらい前に読んだ時は「ちゃんと武雄Disっとるやないけー」とナニワトモアレのゼンちゃんの顔して感心してたもんだが)
今となっては(後出しじゃんけんだから大変申し訳ないのだが・・・・)もっと「今までのトレンドの変遷の先にある今」であるとか、何故に今彼ら図書館は変革を必要としているのか、手探りの中「決め手がまだ無い」という部分をあえて提示し、読者と共に「決め手」を探っていくという方向性もあったのかなぁ、などと。
この辺の構成が、筆者自身にとっても不幸な状況を生み出したような気がしないでもない。
不幸だったのは、ちょうどこの本を執筆している時に武雄の図書館がツタヤに委託され、随分と乱暴な改革(?)をしてしまった点。これがもう少し後であれば恐らくは本書のメインテーマは「ブレなかった」。
敢えてかなりの紙幅を武雄と伊万里の取り組みを対比させることに使ったのは、猪谷氏自身の危惧を示していると推察される。また、刊行前から「ツタヤ図書館ができた後の「最新の」図書館レポート」であった為に反ツタヤ図書館クラスタからの期待も大きすぎた。
一部の人々は「当然」ツタヤ図書館を否定する言葉を盛り込んでくると考えた。猪谷氏も(普通の読解力のある人間が普通に読み込めば分かるように)武雄の図書館を否定的文脈で捉え、言外に(割と執拗な感じで)武雄のスタイルを否定しているのだが、「一部の人々は」それでは納得しない。明言せよと、はっきりツタヤ式はダメですと書けと迫ってしまう。読解力の無い人にも理解できるようにツタヤ図書館否定の文言を入れろという(考え様によっては本書の読者をバカにした物言いである。果たしてスターバックスでオサレ読書をする人が図書館関係の新書を読むであろうか?)

もしこれが対比その他が無く、第5章が伊万里を基にした「市民協業での図書館が生まれたプロセス」の紹介だけだったらどうだっただろう?
むしろ本書が目指したものを上手く読み取ってもらえるのではないか?

そもそも論として猪谷さんは文筆家であって批評家ではない。また、失礼を承知で書くと「図書館学の権威ではない」
たまたま「そのタイミングで」自著を上梓し、そのタイミングであったが為に随分な重荷を背負わされてしまった一人の文筆家に過ぎないのだ。

本来であれば糸賀教授辺りが(本書中でも語られている通り)図書館学の権威であり、政府の仕事もしてたりして「押し立てる権威としては一番の適任」であるのだが、そうはならなかった。糸賀教授はちゃんと樋渡氏達との直接対決で否定的な発言をしているのだが、なんでか猪谷氏が「ジャンヌ」に仕立て上げられ、しまいにゃ攻撃される様を見て…私は大変残念に思っている。
そしてその「たけお問題」部分に注目が集まってしまい、彼女が本当に伝えたかった「読者があまり訪れる事のないであろう『遠く』の図書館の取り組み」の紹介が埋没し、たけお問題の旗印的に使われてしまっているのであれば、頭を項垂れ残念と言うしかない。

はっきり申し上げて、武雄界隈の話をする為にこの本を取り上げると、どんどん彼女の伝えたいものから離れて行ってしまう。
むしろたけお問題と離れたところ・無関係なところに本書の価値があり、半世紀前の「市民の図書館」のテーゼである「身近な図書館が市民の図書館」が生む『遠くの図書館を知らないが為に起こる』停滞/閉塞感を打破する試みがジャンクの下に埋もれてしまう事を危惧した方がいい。仮に武雄の図書館が「宜しくない」と周知された後、まっさらな図書館の書架を前に「ではどの様な図書館が良いのか?」と問われて回答できる人はどの程度いるだろう?
本来はこの様な停滞した環境をレファレンスを通して打破していくことこそが重要なのではないだろうか? たけお問題の今ではなく、たけお問題の先を考え、そこから帰納的に「では今何をなすべきか」を考えることが重要なのであるまいか? それが見えないからこそ「今成功しているように見える」たけお図書館のフォロワーが生まれているのではあるまいか?
その様な状況でこそ輝くのが本書であり、本来は「図書館の今後を見据えるためのリファレンス」を行っているのだ。
論点整理
もしも仮にこの本を手に「武雄市の図書館運営に提言をするのであれば」だが、本書の最初の目的である「多くの人は(市民の図書館が指摘するように)自分の近所の図書館しか知らない。その為近所の図書館を見ただけで「最近の図書館は」等と図書館を論評してしまう。図書館を語る為に現在の「日本全国にある優れた活動を行っている」図書館がどんな視点でどの様なアクションを起こし、それがどの様に評価されているか」を知って、自分の近所の図書館がどの様にアクションしていくべきかを模索するべき…という視点から話を始めるべきである。もしも自分の在所の自治体が図書館の改革を行おうとした時、本当に力になるのは武雄の図書館への否定的視点ではない。それはそれで図書館の本質論に迫る話にはなるであろうが、「では次の一歩はどの方向に踏み出すべきか」という視点が欠けてしまいかねないのだ。
古臭い、暗く陰気な図書館なんてものは最近減少傾向にある。
指定管理そのものが悪いわけではなく、指定管理を専門性の高い部分に充てて現在と比較して高コストになるがそれ以上のリターンを得ることができる「場合もある」し、官民の協力は必ずしも公官庁と民間企業の協業を示すわけではなく、自治体と市民との間で協業体制を作ることも可能であるし、むしろその方がメリットが大きい(伊万里市民図書館は官民協業を濃厚に実施している一例である)
ある複数の問題点に対して「~のみがこの問題に対応できる」、ぶっちゃけCCCのみが問題解決可能であるという強弁は不可能であり、それでしかできないと思っているのであればそれは提案者の見識が低いだけである。実例は本書に山のように積まれている。
…こんな風に言う事もできるだろう。またこれはCCCの生み出したツタヤ図書館にだけ対抗できる話ではなく、むしろ色々な「図書館に対する意識が低く、図書館機能を後退させてコストカットのみを目的とした改革」に抗論していくための武器になる。

知識がわれらを自由にするのだ。知識がないから限られた選択肢の中でベターを選ばねばならないのであり、広範な知識を持つことで多数の選択肢の中からベストを選べるようになる。たけお問題への言及にこだわったが為に「本書の与えてくれる知識の本当の価値」を見失ってしまうのであれば、それはとても残念なことであるように思う。

追補:
何故にツタヤ図書館と揶揄される武雄市の図書館が絶賛されるのかというと、多くの人々にとって地元の図書館が「自分の図書館」であるからで、これは半世紀前の市民の図書館、或いはその前の「中小レポート」の時代から指摘されてきた事実である。
この一つの事実から、50年前は「その自分の図書館をどの様にして多くの人々に利用してもらうか」を考え、今猪谷氏は「地元の図書館しか知らないから、他所の図書館を知ることで新たな発展への道が開けるのではないか」と考えた訳である。事実、武雄の図書館が一部の人々から絶賛されているのもここに起因するのだろう。図書館にそもそも足を向けない人が(勝手に彼氏彼女が思い込んでいる「図書館像」と異なる)武雄市の図書館を見たらどう思うだろう? あの反応は言わば刷り込みなのではあるまいか。
だとすると、武雄の図書館を絶賛する層が知るべき事こそ「地元以外の他の図書館を知り、実際の「現代の図書館」がどんなものであるか」なのだと思う。他の取り組みを知り、多数の図書館をパラレルに並べることで「自然と良い図書館はどの様なものであるか」は見えて来る。
実際私たちは図書館学の権威である糸賀教授が武雄市の図書館を「ブックカフェ」と評したにも関わらず、一定数の人々が武雄市の図書館を絶賛したことを知っている。権威がそれを断罪しても、無知による誤謬は変わらない。だから私は猪谷氏が執拗に武雄の図書館を否定しても「それはあまり効果が無いのではないか」と考える。

無駄なのだ。その様な形では何故武雄がダメであるのか分からないだろうし、もっと影響力のある人間が武雄を絶賛したら…彼らは容易に掌を返すだろう。

日本の図書館が掲げる理念、知識がわれらを自由にするを、もう一度よく考えて欲しい。図書館に関係する活動をするのであれば、特によく考えて欲しい。知識があれば影響力を行使する人間が何か間違ったことを口走ってもそれに影響されることなく自由でいることができる。権力者が何事かを嘯いてもそれに抵抗することができる。

知識がわれらを自由にするという信念を、貴方は信じますか?
誰かを自由にするためには影響力者の言葉や何かの強制力を発揮しなければなりませんか?

知識がわれらを自由にするという言葉は、この世界が「誰か一人の勇者が悪竜を倒す物語」ではなく、あまたの人々が自らの手で、頭で、口で、世界を作っていくという群像劇であることを指し示している。

ジャンヌ一人に任せるのは、もう止めようや。

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