ゲーム関係のBlogに投稿した文章の転載です。ツイッターで「樋渡氏の書評がひじょーにワカンネ」という投稿を耳にしたので、一発おいちゃんの書いた書評を掲載してみようかなと。


さて、諸君は私の大絶賛するフーケーの「水妖記」を読んだであろうか?
今回のテキストはこれ読んでないとわかんねー話なので、是非とも貪る様に読んで頂きたいっ!
全ての良いと思える作品に共通する事なのであるが、本と言うのはある種の経験を他者に分け与える物である。そして歴史に残るような「良著」と言うのは幾つもの「見方」を内在させ、見る人に万華鏡のように様々な視点を与えてくれる。その様な「様々な視点」があるからこそ、時代や文化を超えて愛されるのであろうと私は信じる。
フーケーが残したこの水妖記も数々の良著と同じくして様々な視点を持っている。皆がその「色々な視点」を楽しんでくれる事を願う。
その多くの視点の中から…今回は「魂」と言う題材について少し語って見たいと思う。暫くお付き合いを。

魂!

ウンディーネは気まぐれな水の精霊でありながら永遠不滅の魂を手にした。彼女の弁によればそれはかわいい物であり、重い物であり、真に価値あるものだと言う事になっている。
現代日本に生きる我々は「魂」と言う言葉から霊魂をイメージし、それが自己の精髄そのものであるように感じ取ると思うのだが…なるほど、ウンディーネは魂を手に入れて貞淑で気高く思慮深い女性に変貌した。それまでの勝手気侭なお転婆さんとはまるで別人になった。
…彼女の本質が入れ替わったのだろうか?
もしもそうであるとしたなら…水の精霊であるウンディーネは水の精霊なりの魂を持ち、騎士との結婚の後にはまた別の魂を得た事になるだろう。
そうではない。フーケーの考えによればウンディーネの性質は結婚前も結婚後も同じであり、違いは唯一「魂を得たか否か」にある。#1
つまりこう言う事だ。
どれだけ思慮深く、慎ましやかで、聡明であっても「魂が無ければ」意味を成さないと。それは有効に働かないのである。
その魂とは、司祭との会話の最中にも出てくるように「他の人と共に歩く為」に必要な物で、魂があるからこそ他人の魂と響きあい、共に歩いていける…そしてウンディーネはその素養がありながらも魂が無かった為に「他の人と共にあることが出来なかった」のである。
場を弁えると言うか…雰囲気を読むと言うか…他人を思いやる心と言えばいいだろうか?
例えどんなに素晴らしい人物であろうとも、その場に居合わせた人々の心の襞を読み取る事が出来なければ…心打つ話も出来ないであろうし、人々に同情する事も出来ないだろう。人は(フーケーの言う)「魂」を持つからこそ人に共感し、彼らの気持ちを慮って配慮をする事が出来る。そして共感するからこそ楽しみを分け合い、時に楽しみを盛り上げ、共感するからこそ悲しみをも共有し、共に背負って行くことが出来るのだ。それは喜びと悲しみの両面を保有者にもたらす。だからこそ人は一人ではなく大勢の人々と「共に歩む」事が出来、真の孤独から解き放たれる。
誰だってその場限りの享楽を絶える事無く味わって生きていけたらなぁ…と思う事もあるであろう。ウンディーネの結婚前の状態はこの様なものであった。享楽的と言うか刹那的と言うか…西洋では遠くギリシャの時代から「今を楽しめ」と言う訓戒が伝わっていると聞く。どうせ死ねば塵芥、生きている内に生を楽しめと言う訓戒だ。これは死によって全てが終わる事を前提とした訓戒である。そしてウンディーネは結婚前までは「死ねば塵に還る」存在であった。
しかし…永遠不滅の「魂」を手に入れた彼女は、死んでも永遠に清い場所で存在し続けるものとなってしまった。
今を楽しむだけではなく、死後も良き楽しみがある存在となってしまったのだ。
そして死後を楽しむ為には「良き魂の担い手」にならねばならぬのだ。宜しくない魂の持ち手は死後裁きに会い、煉獄に落とされるからである。魂は天国へも地獄へも繋がる旅券となってしまう。
だからこそ…婚姻によりそれを知ってしまったからこそウンディーネは恐れる。何故に魂が重いのか…我々生まれた時から魂もつ存在には理解しにくい事なのであるが…それが他者の悲しみを我が事の様に感じてしまう原因であり、また死後に永遠の苦しみを与えかねない存在だからである。我々は魂を己の肉が如く背負っている為にその重みに気が付かないのだが、持たざる存在であったウンディーネは新たに背負った「魂」をその様に重いものであると感じ取ってしまうのだ!
魂が無ければ人の喜びを我が事の様に喜ぶ事も出来ないし、その楽しみを我が事の様に盛り上げて一層楽しむ事もできない。
魂が無ければ楽しみはその人個人の楽しみでしかなく、魂が無い故に他者の魂を響かせる事も出来ないだろう。
魂が無ければその人の悲しみはその人のみの物となり、他者はその悲しみの深さを慮る事もできず…悲しみの上に孤独が押し寄せる結果にも繋がろう。
現代風に言えば「共感能力」だろうか?
私はさらに妄想を深めてこう思うのだ。
死者に対する共感の能力が…魂ある彼らがそのまま塵芥に還る訳が無い…そういう哀悼の気持ちが天国であったり地獄であったりと言う「死後の世界」を認識させるのではないかと。魂無きもの(共感が無いもの)は「死んで失せればそれまでよ」と思うかも知れぬ。そうして魂無きものは妖精の様に消えていくのだろう…彼の存在はそこで消える。
それは魂の領域の事なので、見出す者は見出すし、見出せないものには見出せない。
そして悲しむべき事に魂を持っているはずの我々は…時にその「魂」を使いこなせない事がある。
それが素晴らしい物であるにも関わらず、それの使い方を忘れてしまうのだ。ベルタルダに対してウンディーネが驚き、悲しみながら「あなたは魂をお持ちなの?」と問いかける部分を思い起こして欲しい。ベルタルダはこの世の権勢やら豪奢な何かに眼が眩んで魂を震わせる事を忘れた…産みの親の悲しみをウンディーネに聞かされていながら、その悲しみに魂震わせる事無く…己の喪失感にのみ心囚われた。魂の使い方を忘れてしまった。
持っているのに使わない…翼持つ鳥が空を飛ぶ事を忘れて地面を右往左往していたらどう思うだろう? #2
ベルタルダの行為に対して…新しく魂を得て魂の扱い方を何とするかを十分に見知ったウンディーネは驚き、恐れる。それは空飛ぶはずの鳥が必要な時に空を飛ぶ事を忘れて自ら混乱する様を見るのに似ているかもしれない。彼女の「あなたは魂をお持ちなの?」と言う問いは、「なぜ魂を震わせる事が出来ないの? 魂の使い方を忘れてしまったの?」と言う問いと等価であろう。
ウンディーネは魂を得て「悲しみから喜びが生まれる事も、喜びから悲しみが生まれる事もある」と言う。魂の扱い方さえ間違わなければ魂の持ち手はあらゆる所に喜びと悲しみを見出す。

我々はどうだろう?
我々は「魂」を持ち、正しくその効能を使い切っているだろうか?

#1
余談であるが、昔ファイブスターストーリーの永野が奥方と何ぞ自作の「オリジナル」CDを出した事があった。その中にラプンツェルとかの話を題材にした歌があったんだが…なんとウンディーネの歌もある。しかし詩の方がヘニャヘニャでウンディーネは婚姻で「生まれ変わった」事になり、そして命果てる事となったなんて詩であった。
無論私は「生まれ変わっても居ないし、騎士の死後もウンディーネはその腕に騎士の亡骸を抱いて生きている」と取ったのだが。
#2
多くの物語では人間は「万能なる神と比較して」持たざる物と規定される事が多い。人間は不自由であると、人生ままならないと。しかしごく一部の物語の中には人間の持つある種の能力を欠いた存在を出し、それが人間を羨み、或いは称える構造を提示する事がある。そうして考えると実際の所「我々が見る万能の神」にも我々が計り知ることが出来ない巨大な悩みを抱えている事があるかもしれない。…単純に入れ子構造なのかなぁと。マトリョーシカですよマトリョーシカ。それの一つがこの水妖記であると言えよう。
この入れ子構造を題材にとった日本の伝奇物語の傑作が「妖星伝」である。題名が水妖記に似ているが中身はどっちかと言うとオヤジ向け小説(エログロあり)の衣をまとった「訳の判らん思想書のような物」であり、よく噛むと時代劇風味なのにSFの味も混ざってると言う恐ろしい怪作である。この本はエログロの部分以外に若年層に対して恐ろしい影響を与えかねない「劇毒」を含むため、若すぎる者と余り本を読んでいない人にはお勧めできない。余りに強烈なので自分の思想を持たないとこれ一色に塗りつぶされてしまう危険性がある。くだらないエロ本よりもこっちの方を青少年育成の為に規制すべきであると私は信じる。(規制する方はこういう「真に危険な書籍」の存在を知らないのであろう。エロ本如きで人生踏み外す奴はそう多くないが、ある種の書籍は容易に人の人生を捻じ曲げる)…ある程度「自分の立ち位置」を定めてから読むとショックがでかくて刺激的かもだ。
この本、噂では最終巻の原稿を編集者が紛失して数年最終巻が出ないと言う状況に瀕したことがある。原稿紛失の噂以外にも内容が余りに刺激的なので公安からマークされて出版不能になったとか色々噂が立ったものである(そして…内容知らないと「なにそのXファイル」とか言われちゃいそうな噂話、内容知ってると「そんな可能性もあるのかなぁ」と妙に納得してしまう辺りが怪作の怪作たる所以である)

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