月を指差す様なものだ

英語版ロケットニュースに例のツリーに関する批判的論調の投稿が寄せられている。

記事自体は週末にでもぼちぼち訳してみようかと考えているが、様々なクリスマスツリーを例に取り、主催側の勝手な条件付きで世界一を名乗る部分に不快感が集約されている様だ。一部誤解もあるが、論旨としては「クリスマスツリーのデカさ競ってどうする? もっと違う楽しくてやるべき事があるんじゃ無いか?」という部分には共感できる。

そも、クリスマスツリーとは何だろう?

2つ前の記事でも記載したが、救い主イエスの生誕を祝うものではないか? そのツリーの高さを競ってイエスを言祝がないイベントに如何程の価値があるのだろうか?

あの木は、禅宗の説話「指月の譬」における指なのだ。俳優であり武術家であるブルース・リーは死亡遊戯の冒頭でかの有名な「考えるな、感じるんだ!」という名セリフの後にこの指月の譬を語る。

「月を指差すようなものだ。指に捉われていては、その先の天の栄光を得られないぞ」

ブルース・リーのジークンドーでは徹底的な反復練習により、どう攻めるか考えるのではなく、相手のアクションに即応して即興で技を繰り出す事を要求する。型の否定は型に拘るのではなく「型が目指すその先を常に見据える」という意味で定義されている。

ロケットニュースのあの記事は、クリスマスなのにクリスマスにおける「指」に拘り、その先にある大いなる喜びに目を向けていないという意味では、全くブルース・リー師父と同じことを指摘している。余程のことが無ければ程度は違えどキリスト教という共通の土台を持つ国の人として、極めて妥当な批評と言えるのではないか。やるべき事とは即ちイエスの生誕(あちらの教義的には「降誕」という)を喜び、共に分かち合うことであり、「自分勝手な『人の手で運ばれた根まで含めて最大のツリー』なんて条件持ち出して世界一を喧伝」する事ではない。

つうか、最大でもない様なんだがな。

そも、基本的にキリスト教は禁欲的な傾向があり、虚栄心や馬鹿騒ぎはあんましない宗教である。なしてキリストさんを称えるでもなくドンチャンしてしまうのであろうか。

これ、例えるならお盆の習慣無い国で世界最大の盆ダンスパーティ(しかもランダバとかモンキーダンス!)やられてる様なもんではなかろうか…

広告

武雄のツタバを精一杯ゲタ履かせてみる

その昔、サルでも描ける漫画教室という漫画で、宣伝広告漫画の事を論じた回があった。内容的には「ある物事を批判するにせよ肯定するにせよ、どっちからの要請でも受けるのがプロ!」という大変身も蓋もないものなのであるが、プロ根性としては大変評価できると思う。

その昔、私はPCパーツ関係の雑誌で連載を持ち、たまに請われて製品レビューも書いたりしたが、その際に覚えた売文稼業のテクとして「下駄をはかせる」というものがある。全体的にみるとウムムとなる商品でも、良い点を見出し、そこに価値を持たせて製品販売しているメーカーさんをそこはかとなく支援するのは同じ業界に生きるものとして必須の技術なのである。なんの捻りもなくベンチマークとって表を作るのがライターの仕事ではないのだ。曲線配線だー、6層基板だ、固体高分子コンデンサーだ! 見るべきものは製品にたくさん詰まっている。そこを強く打ち出して販促に結び付けるのも一つの筆力であり、この優しい世界を実現することを「下駄をはかせる」等と言う。

昨今のツタヤ系図書館(武雄、海老名、多賀城)を見ていると、下駄の履かせ方が非常に雑である事例が目立つようである。なんでなんでもかんでもオサレだオサレだと書くのであろう? なんかもう少し気合の入ったレポートは書けないものであろうか。

今回、その「武雄のツタバをできる限り事実に即し、下駄を履かせて評価してみる」というのを、思考実験の一環として行ってみようと思う。

武雄市図書館・歴史資料館は平成元年、第三次武雄市総合計画に基づき市民文化の森構想のもと、現在の場所に新築された市立図書館と歴史資料館のハイブリッド型施設です。現在の建物は2000年に完成し、改装を経て今の状態なっています。
完成当初から数年は資料費などに予算をつぎ込み、大変充実した図書館を目指していました。しかし市の財政の悪化や予算執行の優先順位の問題で次第に図書館費は減少し、結果的に利用者数も思ったより伸び悩んでしまいました。
武雄市図書館・歴史資料館完成後、武雄市は近隣町村と合併し、合併後の初代市長となった樋渡啓介氏はこの状況を深く憂い、大胆な改装に着手したのです。

(当時の)市長は考えました。ただ図書館をリニューアルしたのでは大きく利用者が増える事は無い、何か大胆な構成変更をしなくては…そこで取り入れたのが、内部のデザインの大幅な改善と、提供するサービスの追加です。新築から12年経過の2012年、市長はCCC(カルチュア コンビニエンス クラブ)を指定管理者とし、当時既にオープンしていた六本木ヒルズ内のライブラリーを範とすることにしました。
ropponngi
(上記画像は こちらより 借用しました)
天井まで届く書架、カフェと一体化した閲覧スペース、無線LAN設備…カフェは委託先であるCCCの関係上、フレッシュネスカフェではなくスターバックスコーヒーとなりましたし、六本木ライブラリーのように眼下に東京の夜景を写すことはできませんでしたが、雰囲気は随分と似せる事が出来ました。佐賀県のあまり有名ではない町に六本木ヒルズのライブラリーがやってきたのです!対外的には代官山の蔦屋書店が武雄に来たと告知していますが、正直代官山蔦屋書店には余り似ていないと思います。(あの店一部天井低いですし)

結果として集客は大成功し、第2、第3とこの形式の図書館は増えていきました。いずれも集客数は大きく伸び、若者が集う施設となっています。今やこの形式の図書館は図書館としての枠組みを超え、別の施設になったと言っても過言ではないでしょう!

今、図書館界隈ではこの形式の図書館に限らず、色々な取り組みがなされています。多くのCCC運営図書館礼賛派は何故か触れないのですが、喫茶店や本屋とのハイブリッドだけではなく、様々な施設が有機的に連結して図書館として進化した施設も沢山あります。

それらの図書館を巡り、それぞれの良いところ、悪いところを確認していくのも悪くないかもしれません。今正に図書館は変わりつつあるのです!

続きを読む

神戸の「世界一のクリスマスツリー」という物語

2017年11月末から、神戸の港に氷見から翌檜持って来て、世界一のクリスマスツリーを立てるよ! なんてイベントが開催されている。

まあその、炎上案件であるし、この文章記載中も大絶賛燃え続けている。その騒動の情緒的部分に関しては数多くの言及があるし、同じこと指摘する様な真似しても柳の下のドジョウである。そこで本ブログは本や図書館、物語に対して言及するのを本分としているので、他の方と違う視点で本件を語ってみたい。

ストーリーの矛盾

ツイッターの「世界一のクリスマスツリー」タグに寄せられている批判意見を見ると大体の時系列の流れが把握できるが、私が最初に本件に触れて違和感を感じたのは「クリスマスツリーで神戸港開港150周年記念で、かつ神戸の震災復興」という盛り込みすぎな企画意図である。なんだこれ?

まず、キリスト教的にはクリスマスはキリストさんの「降誕祭」であり、救い主イエスが神の子として聖母マリアから生まれた…そして原罪が贖われ、人々が救われた…というお誕生日おめでとう!の日である。なんで震災の鎮魂だのをイベント趣旨に混ぜてしまうのか。お祭りだからかんけーねーや!なのだろうか。もし私の誕生日に日が近いしせっかくだからでなんかの鎮魂とか混ぜようとか言われたら、流石に「誕生会にそれ混ぜるのやめてよー」ぐらいは言う。幾ら何でも誕生日を祝う中で鎮魂はねーよ。正月に髑髏持って「正月は死出の旅の一里塚」とか話して回った一休宗純かよ。

次に、主催であり木を切って来たプラントハンター 西畠氏は「巨木信仰」とか言い出す。

確かにクリスマスツリーの原形はヨーロッパに存在したケルトなどの文化圏に存在するユール(冬至を太陽の死と再生に見立て、収穫祭も兼ねて祝う祭事)であるが、キリスト教は伝播や布教の過程でこの祭事をキリスト教に塗り直すため、当初キリスト教と関係無かったユールを習合したという経緯がある。むしろ再生と復活持ち出すならユールをやれば良かったんだが、なんでまた巨木信仰を根絶しようとしたキリスト教側の「クリスマス」に紐づけてしまったのだろうか? 一神教に巨木信仰は無いだろ、常識的に考えて。

そも、時系列やハウステンボス側の人々へのインタビューから「鎮魂や開港150年は後付け」という情報も出ているが、側から見てて「後付けもなにも、付いてないやんけ…」と思う私であった。

そも、クリスマスツリーにするなら一般的にはモミの木を使うのだが、これにはキリスト教的な理由がある。元々樹を切り出して祭り、火を焚いて収穫祭するのはケルトの風習であるが、これをキリスト教に習合する際、横から見て先端が尖った二等辺三角形型の樹を用い、聖三位一体を表現する…という不文律があるのだ。モミの木はその条件から選択されてるし、クリスマスツリーが人工物や生木であっても似た形してるのはその意を汲んでいるからである。残念ながら今回の翌檜の木はこの条件満たしてないし、この樹形見てクリスマスツリーに最適だ!と西畠氏が考えたのであれば、キリスト教的な意味での常識がかなり欠如していると言わざるを得ないし、オーナメントに願いを書いて世界一狙うとか、七夕でやれよ的な違和感がある。どこの異端がクリスマスツリーに願い事の短冊ぶら下げるのだろうか? 聞いたこともない風習だ。

で、最後が大変に不味い。

このツリーの広告ワードに「輝け、いのちの樹」というものがあり、私も当初ほふーんと見逃していたのだが(うち神道なんで)

ツリーの下でケーキ販売してる店がこのワードを英訳したのを商品名にしてるの見て思い至ったのだが…これ、Tree of Lifeと名付けられており、つまり旧約聖書中で語られてるエデンの園の中央に植えられ、アダムとイブが失楽園(不倫の話じゃないぞ)した原因である「生命の樹」らしいのだ。

クリスマスツリーなんてのはキリスト教伝播の過程で布教や異教徒の折伏目的で生まれた物だから、正直キリスト教的にはどーでもいい話である。聞くところによれば原始キリスト教系の団体からはクリスマスツリー否定論が出ているという。

しかし、生命の樹は旧約聖書に来歴のあるキリスト教はおろかユダヤ教やイスラム教(それぞれ軽重は異なるが、いずれも旧約聖書を少なくとも聖典の一つとする宗教である)にも関連した事物である。クリスマスツリーはともかく「生命の樹を切り出して神戸の港におったてて、イルミネーションでピカピカさせて、終いにゃ神社の鳥居にする」というのは激しく不味い。

翌檜の木のクリスマスツリーの否定論の中に注連縄はった御神木切るなんて…というものがあって、西畠氏は「御神木じゃないんです、安全祈願の神事の関係で…」と言い訳してるのだが、まさかそんな事言っておきながら自分らで「生命の樹」と名付けて神木も神木、キリスト教徒から尊崇を受けるエデンの園の中心に立っている神の植えた樹扱いするとか恐れ入った。君らホンマモンのバカだったんだな…

割と本気で海外キリスト教徒とかユダヤ教徒からガチめの批判を浴びて世界レベルで炎上しないことを祈るばかりである。

せめて英語訳は変えよう。あれ検索で引っ掛けてググるで翻訳されたら本気でヤバい。

和歌山市議会副議長さん大人気の巻

和歌山県の和歌山市議会、副議長さんであらせられる戸田さんが大人気なんである。

(他意は無いが検索でヒットする様に「戸田渕」という呪文を追加せざるを得ない)

和歌山市に新しい図書館分館ができて、書架がスカスカでこれはいかんと。

やっちまいましたなぁ。

で、ちょっと前に学芸員がガンだとか言ってどエライ目にあった大臣なんかもいてそーゆー事に対しセンシティブになってるツイッタランドの人々(モヒカン気味)からトマホークが山ほど飛んできたのである。しかもトマホークは手投げ斧ではなくゲッタートマホークかミサイルの方のトマホークみたいだ。オーバーキルですなぁ。

まぁ、できたばっかりの図書館は、普通書架スカスカかなと。これから蔵書増やすんだから空きがないといかんよね。この辺までは図書館よく知らない議員さんがわーきゃー騒いでるだけなんで可愛いもんだ。が。


またやってしまいましたなぁ。児童図書のスペースは児童向けなんだから当たり前すなぁ。なんでまた「何が何でもdisっちゃうぞー」なんでしょうなぁ。ま、まぁ…この辺までも図書館に無理解な「残念な議員さん」だから仕方ないと言えなくも、無いかなぁ…と擁護の余地はあるかもしれない。が。

この議員さん、和歌山市議会の副議長さんらしいのである。和歌山市は人材足りて無いのかしら? で、恐るべき事にこの見識で図書館に注力していると言い出しているのである!

確かに議事録検索すると長々と色んな図書館視察しただのノーガキこいて特定図書館マンセーみたいな話はしている。「特定図書館」と言えばみなさんお馴染みTSUTAYA図書館である。つーか、図書館が好きなんではなく本が好きなわけでもなく、TSUTAYA図書館が好きなだけな「大変残念な議員さんなのではないか」と思うのである。

人の好みはそれぞれであり、TSUTAYA図書館に憧れてしまう残念な人である事は、私は非難しない。残念な感性だから議員やったらいかんなんちゅー話はないのだ。但し指摘されてる問題点や各種の問題無視して好きだからーだけでTSUTAYA図書館誘致とかしてもらっては困るのである。議員として職責を守り、適正な議論の元にやって頂きたい。

が。(本稿三回目)


言い訳が段々ショボくなってきた。ツイッタランドではこうだけど市民は賛同してくれてるもん! 僕悪くないもん!(こうですか、わかりません!)

いや、ある程度のバイアスは掛かるだろうが、こんだけ否定的言説広まると流石にこれは厳しくないかと。大体粋ってなんだよ、和歌山民の癖に粋と来やがったかこんちきしょう!こちとら江戸っ…子ではなかったすまん(私は練馬の産であり江戸っ子とは言えないである)

なんかこー、才能を感じますな! 但し炎上芸人の才能であり、そんなもんはビタイチ欲しく無いわけですが。

そして、これである。


少し詳しく説明しよう。図書館に限らないが、なんか市の施設作るなら「作ろうか?」という計画段階で市議会で話し合いがある。普通は。

で、計画の詳細詰めて場所や設置目的や予算や場所や細々としたことを決める。議会で。

蔵書可能数や現時点での蔵書数、毎年何冊ぐらい本買っただの破棄したのはこれぐらいみたいな資料は図書館に行けば見れるし、普通は市役所サイトの図書館コーナーにデータ置いてある。議会で決めた事である程度の概要は分かるはずであるし、自分らの執行した予算でどんなものが出来るか想像出来ない奴は予算審議とかしたらいけなくないか?

議会での予算審議って、予算削る場所ではなく「予算が妥当か否か」話し合う場所であり、足りなかった、或いは「これではこうなるから増やした方が良く無いか?」と疑義を挟み、審議の結果足りないとなったら増やせるよね? 和歌山市では何故か予算の細目に対して話し合いを持てず、提出された予算案を削るか通すかの二択なのかもしれないが、普通はそんなこたーねーと思いますが。

もうここまで来ると、なんでこんなのが議員やってんだレベルであります。この人議会で何してんだろう? 寝てるの? 早弁して漫画でも読んでんの?

もしも図書館分館の書架が寂しくてションボリしたのなら、議員として普通は「もっと前倒しで分館用の蔵書整備させるべきだった。余裕のある予算と時間与えるべきだった…」とか、「建築パースに騙されたので次回以降気をつけよう」とか、もうちょっと違った話をしたりはせんだろか。何が100点満点中30点だ。次回得票率有権者の1%以上取り付けてから言え。あなた悪いとこはひわたんそっくりだな!(悪いとこだけ)

一市民が色々な不足により図書館に対して残念な発言してしまうのは残念ではあるが仕方ない。が、議員で副議長やってる人が議会のなんたるかをよく知らず、まるで他人事モードで「自分らが通した予算執行の結果」をdisるとはどういう了見か。先にTSUTAYA図書館推進派では無いかと書いたが、それは傍に置いたとしても「これは酷い」


 

邪推すると、スカスカ話から「そうだ、これは酷い」という賛意を集め、本館リニューアル(既に計画進行中?)を「お前らでは話にならん」で蹴っ飛ばし、TSUTAYA図書館化を進めようというハラだったのでは無いかと思うのだが、話にならないのは当人だったという話。誠に残念な限りである。

で、なんでそんなもんわざわざ取り上げたかというと、一連の所謂「祭り」の中で、議会がどんな風に図書館計画に触れるか、どんな感じで図書館は生まれて来るのか書くのも良いかなと。つまりそっちの記事の枕なんだこれ(笑)

戸田議員は2017年GW後半は沈黙を貫くご様子である。

悲喜交々

上尾の共産党の方にブログ記事を紹介頂いたのである。

なんか雑な話と手書き文字付き地図で申し訳ない気もするのだが、なんかこー「図書館を良くしてくれる実行力を有する人」に言葉が伝わるのは嬉しい。これは本当に嬉しい。

だが、人間は今手の内にあるもので満足するだけでは飽き足らず、常にその先を見てさらなる物を期待し、未定のさらなる物と手の内のものを比較して悲嘆するという厄介な生き物なのだ。良寛さんや一休さんの様に生きられたらどれだけ素晴らしいか…凡夫たる私は今回の顛末に喜びつつも、一抹の悲しさを感じてしまうのだ。嗚呼、こうであったらなら!と。

先の上尾の図書館移転に一言では単純に疑問点だけ書いた。一言だからネ!(言い訳)

では、その問題ある計画に対して、どーしてったら良いのだろう? 私の先の投稿にはこの視点が決定的に欠けているのである。それは上尾に関しては余りよく知らないという川口市民の視点に起因する部分もあるし、外野だからいー加減というグータラ成分もある。

だけど、上尾の皆さんにとっては、大変切実な問題だろう。予算執行や用地買収の所なんかは現実問題大変にアレである。そしてそれと同時に「図書館を機能的に運用する為のネットワーク構築」という点からも、何か提言があって良いのではないか?

先の移転話でも、私は本館機能をあの地に移転するのには反対しているが、分館などはあの辺に必要かもと記載している。段階的な執行になるが、あの地に分館及び「書庫」を作り、更に駅前に本館を再構築するという方針ではいかんかったのか。

また或いは、せっかく野球場の近くに建てるのだ、野球関係資料を重点的に蒐集し、野球民に供するなんて方針もあるかもしれない。余り本とか読みそうに無い野球少年に文武両道で本を読む様に仕掛けていくなんてのも悪く無いかもしれない。

イングレスやポケモンGoを活用して人集めはどうだろう? 見てみたらやはり例の球場周辺はポータル密集地でFFとかやれるかも知らん。


これらのゲームは大変電池を消耗するので、図書館に携帯の充電施設があれば使う人いるかも知れない。(図書館内で携帯利用不可なんだから、入り口で「なんか理由つけて」携帯を奪っちまえば良いのにー、いっそ電話できない様に充電でもしたら…なんて考えた事あるんだ) イングレスは郵便局と図書館に対して敬意を払う見上げた根性のステキゲームだし。携帯充電中は暇だろうから本でも読みたまえよ! ついでに各ポータルの来歴とか調べて説明書き追加したらいい。(イングレスやポケモンGoをよく知らんならぐぐって頂きたい。ポータル説明記載の件に関しては図書館利用の一つの形として記事書くかも知れない)

先の共産党の方のブログの他の記事見ると、スーパーで演説したとか、その際に新図書館の話をしたとか記載あるんだけど、大変残念なことに「〜だから、こうすべきだ」みたいな文言が見つからないのだ。或いは議員さんサイトには記載があるのかも知れない(ならば導線張ろうよ!)

人生色々、図書館も色々。悲喜交々であるなぁ。(今回の記事で「ゴモゴモ」ってこう書くんだーと妙な感動を得た)

なんか忙しいでござるよ

とある文章がツイッタランドで大人気なんである。

まあ、いつも通り各人が事実関係の誤認とかその辺で言及してる訳だが、それはそれとしてここでは触れない。

上記主文においては余りTSUTAYA図書館を調べて無いのだろうが、かなりかの施設に対して好意的に書かれている。

「このご時世、本を読む人は本当に少ないです。」

「そんな状況で図書館が苦しいのは当然です。」

ふむふむ。成る程成る程。筆者は周りが本を読まぬことを嘆いていたが、おじさんはおじさんでニュースの裏取りをしない辺りを嘆いておこう。

実際問題として、TSUTAYA図書館を導入している自治体で図書館利用者が伸び悩み、資料費や図書館費が削減され、蔵書が古びてたりするのは合ってる。が、それは何年も何年も図書館が軽視され、予算とかが枯れていった結果であり、その問題根幹を直視せずに場当たり的にTSUTAYA化するとどうなるだろうか?

図書館には図書館の統計資料があるから見てみるといい。TSUTAYA化後もやはり資料費は増えず、管理費は増大し、割と中古本などでお茶を濁されているのである。TSUTAYA化で確かに予算はたくさん下りた。が、肝心の本の予算は比率的にはかなり減るのだ。なんでTSUTAYA化で図書館の本が増えるのか。併設の蔦屋書店の売り上げ下がりませんか?

参考記事

蔦屋は営利企業なんです。文化とか言ってるけど基本は営利追求が根底にある私企業なんです。よって、図書館の管理も営利追求の視線が常にある。儲けられる時は儲けるし、儲からなければ撤退する可能性あるのね。しかも導入自治体は割と図書館機能二の次で他の経済対策優先傾向が高い。

このコンビネーションで、豊かな本の未来を期待できるかなぁ?

参考文献置いとくね。

図書館とT-Point

急いで書き上げる羽目になったので、後で補足説明入れるかもだ。暫定版です。

さて、本Blogは図書館活用Blogなので図書館界隈にまつわる様々な話題に食いつく訳だが、割と初期から一貫して批判している問題として、TSUTAYA図書館におけるT-Pointカードの採用というのがある。反TSUTAYA図書館界隈でもいくつかの方向性でこの問題に対して批判を加えているのだが、私の観測範囲の中ではセキュリティークラスタの御大将高木先生(愛称 ひろみちゅ先生)の薫陶もあってか、プライバシーとかセキュリティー方面からの批判を多く見かける。
各人の問題意識は一様ではないのでその様な視点からの批判もアリだとは思うが、私は割と「望んでCCCに個人情報提出する人は(かなり分かりにくくカモフラージュされているとしても)自己責任で情報渡してるんだから、それはそれでいいんじゃないか」的な考えを持っていたりもする。そこで、私が何故にT-Pointシステムを図書館に導入する事に反対しているかを、少し書き出してみようと思うのだ。

1.分かりやすく単純化し、模式化してみよう
ある図書館で利用者が何か図書館の為になる事をしてくれたらお礼をしたいという提案が出たとする。そこで愉快なおじさんが、市域内にある有名スーパーAの金券配ったらどうかと言い出した。金券とはいえ額面は10円以下。本当に「ちょっとしたお礼」に過ぎない。図書館費でこの金券を購入し、配布したとしたらどうだろうか?
一見、少額だしいいんじゃないのと思わないでもないが…これ、税金を利用して特定のスーパーAの利用を高める施策になっちゃいますよね? 余り有名ではないが個人経営で頑張ってる八百BさんとかマルCツの店長とか怒っちゃいますわ。なんで市民の税金で特定企業の客寄せを手伝うのか。

T-Pointは確かに発行枚数が多いかもしれない。色々なお店で使えるかもしれない。だけどそれはT-Pointプログラムというシステムに加入し、ポイント原資を支払ってる企業でしか使えない限定的な物ではあるが「公正価値」である。その価値を付与することで利用者に対して特定店舗(群)への誘導を行うと言い換えてもいい。(ナナコ持ってればナナコ使えるセブンイレブン行った方が得だし、ポイントがあればそのポイントを使いたくなるからセブンイレブンに行き、ついつい余計な物まで買ってしまうのがポイントカードの目論見である)

公共施設が、特定企業への利益誘導しちゃぁ、ダメだろう。
2.原資はどこだ?
この間岡山の高梁市でTSUTAYA図書館がオープンしたのだが、オープン前に市の担当者は「Tポイントカードは採用しない」と市議会で答弁していたのにも関わらず、開店してみたらT-ポイントカードが採用されててびっくりした、なんてニュースが出ていた。
実際にその記事を読んで確認してみて欲しいのだが、結局導入した教育委員会の次長がなかなか教育委員会の人間とは思えないような支離滅裂な答弁を重ねているのである。
次長の説明になっていないような説明では、自動貸し出し機を利用してくれてありがたいからポイント還元なんだそうな。自動貸し出し機って便利だから使って貰えるのではないんだ。へー(棒)

この茶番劇では「人員の省力化の為に自動貸し出し機を導入し、その省力化に協力して貰えるからポイントを渡す」なんだそうで。
勝手に人員省力化して採算性を高めるのは構わないが、その上なんでTポイントを配布してTカード提携企業への顧客誘導とか図書館がやらねばならないのか? そのポイント原資はCCC側が負担すると言っているらしいが、ポイント要らないからその分受託金額値引きしろって話ですよね。
ポイントで釣って自動貸し出し機に誘導するのではなく、利便性を高めて「こっちの方が楽だし便利だから」使って貰うようにすべきなんじゃないですかね文化的便利さクラブ(CCC)さん!

と、こんだけ執拗に書いているが、実は上記のネタは本題ではない。
結局ポイントを渡すに際して原資はどこから出ているのかというのが問題なのだ。
CCCと教育委員会側の答弁では、原資の負担はCCC側であるという。しかしその原資の振込先はT-Pointの管理を行っているCCCの関連企業ではないのか。そも、CCCは定額で図書館の運営を受託している企業であり、それが勝手に運営効率化を狙って自動貸し出し機を入れているのだから、この時点で委託費用は削減されるべきであろう。当初計画時の見積もり(当然市側に保管されているだろう)と、導入時の見積もりを提示させるべきである。というか、予算執行の問題あるから金額変更になったら議会諮問するのが普通なのでは…?
この辺のプロセスが透明化されない限り、どんぶり勘定で委託分の金渡して、その金の中でポイントシステムやってるんじゃないかと言われても仕方があるまい。
で、T-Pointって1Pを顧客に渡すのに負担金は1円じゃないのね。今さっきGoogleで検索したらYahooのネットショップの話が出てたんだけど、昨年4月1日から1P付与するために2.5円負担する様に規約変更しますとか書かれてんの。1P発行する毎にソフトバンクを通して(?)1.5Pが管理会社とかに中間搾取されると。
まぁ、高梁市の年間貸し出し冊数は2015年実績で55000冊なんで、一冊借りるごとに1P払っても支払総額は55000円。支払い原資は13万7500円(Yahooと同じ負担割合の場合)大した事にはなるまい…なんかオープン数日で昨年の年間来場者数を超えたって話を見たような気もするが、仮に10倍になっても137万5000円。CCCに支払ってる金額から考えたら微々たるものだ。(なお、高梁市の2013年度決算を見ると、図書費は549万9000円…ざっくりとこれまでの年間資料費の1/4がポイント原資になるとゆー…)
もし仮に本当に私心無くありがとうの気持ちでポイント還元をするのであれば、還元するポイントを選ばせて欲しい。私のように思想信条の問題からT-Pointカードを持たない人もいるのだ。ポンタかナナコ、PASMOやSUICAで還元してもらいたいものである。その場合CCC側は各ポイントシステム運用会社に原資を支払う事になるが、先の1項の問題は多少緩和されるだろう(ポイントシステム入れてない所に対する不義理は続くけれども)

3.ポイントシステム悪用されない?
以前、図書館の委託管理会社が書籍貸し出し数を水増しするために図書館員に本を貸し出させ、そのまま読みもせずに返却する手続きを繰り返して貸し出し実績を水増ししたなんて話があった。この時は運営受託会社の実績の水増しに貸し出し数が悪用されたわけだけども、ポイントシステムを貸し出しに連動させることで、子どもが面白半分に毎日本を借りる手続きをして、そのまま返却するというイタズラする可能性は無いのだろうか?
カウンターで有人貸し出しなら頻繁に来る子を見分ける事もできるだろう。しかし、自動貸し出しシステムではどうか?
また、発行ポイントはある一定年月で消滅するのが常である。何故一定期限になるかというと、財務会計上の問題なんだろうが(発行時点で債務になり、ポイント利用時点で売り上げになる。無限期間ポイントを貯められるようになると、債務が青天井になる可能性がある)
つまり、本来はポイントとして還元されるはずだったものと原資が、ある一定期間経過後はまるまるT-Point運営側の売り上げになってしまうのだ。逆に言えば、なんかテキトーなT-カードを作成し、毎日のように本を借りたことにして「図書館としては貸し出し冊数実績を作り」、そのままポイントを失効させれば、遅くとも失効年度の期末には積み立てた負債をまるまるカード運営会社が売り上げ経常出来てしまう。
他にもいくつかポイントカードシステムを悪用した細かい金の集め方はあると思うのだが、あまり書いてそれを実際CCCにやられてもたまらないのでこの辺にしておく。

私企業が自分で仲間を募ってやる分には構わないが、ざっと上記の3つぐらいの問題点がある。しかもこれは「私が気にする公共図書館としての機能との齟齬」であって、セキュリティクラスタはセキュリティークラスタでまた別の問題点を指摘するだろうし、行政監査クラスタはその手続き上の問題をこれまた独自に指摘するだろう。私の指摘は一番単純で一番わかりやすい所だけかもしれない。

『なぜ地方都市に「TSUTAYA図書館」が次々とつくられているのか?』 に対する私見

出遅れてしまった。本当はひろみちゅ砲が唸りをあげる前にBlogにまとめるべきであった。

この間、現代ビジネスというサイトに以下のような記事が掲載された。
『なぜ地方都市に「TSUTAYA図書館」が次々とつくられているのか?』
副題は「人口減少と消費社会化のなかで…」 筆者の方は社会学、消費社会論、歴史社会学が専門であり、今年4月から立教大学の准教授として働いているようだ。

流石に専門が上記の分野なので、正直に申し上げると「図書館界隈のことを相当読み違えている」様に思える。先の小文ではTSUTAYA図書館を滞在型図書館の嚆矢のように扱い、比較対象として貸出注力型の図書館(1970年代あたりからのトレンド)と新旧対比している。

彼はTSUTAYA図書館で知ったのかもしれないが、先の小文の1P目に記載されている
「飲料物の持ち込みを許し、音楽を小さく流す。休館日を極力減らし、開館時間を夜間まで延長する。座り心地の良い椅子を用意し、また直感的に手に取りやすい形で本を並べる」
というTSUTAYA図書館の特徴として挙げられているものは、音楽流したり直感的な並べ方などを除き、滞在型だと割とよくある特徴でもある。
すでに本ブログでは戦後図書館のトレンドの変遷や滞在型図書館の成立過程などについて説明を重ねてきた。本邦では戦前図書館の反省から戦後図書館の構築が始められ、1960年代からの「図書館の利用率をまず高めよう!」という流れから「広域奉仕」や「移動図書館による貸し出し」が重視され、戦略的に児童書の拡充と本の貸し出し数とという数値での図書館評価が進められてきた。その際に「無料貸し本屋と言われようとも、まずは利用率の向上だ!」という覚悟があった点は特筆しておきたい。

その後、2000年前後から予期されていた「無料貸し本屋」議論が再燃し、ここで図書館界は政府主導の「問題解決型図書館」構想を打ち上げ、レファレンスという司書の積極活用を図書館の一つの軸に据えるべく力点を少し移動させるのだ。ここで生まれてきたのが「滞在型図書館」であり、元々はゆっくりのんびり本を読むのではなく、学術研究(というと少し硬いが、要は調べ物)を行いやすくする為に滞在しやすい形を取り始めたのだ。

さらに近年では図書館の複合化が進んでおり、浦和のさいたま中央や桶川駅前のような「デパートの上に図書館」とか、川口中央の様な「スーパーも市役所の出張所も保育園も市民ホールも本屋も喫茶店も無印良品も英会話スクールもまとめて入った図書館(と言うか、図書館もその一部に過ぎない)」、大和市のシリウスなども出来ていて、むしろ図書館に本屋と喫茶店ぐらいしか入ってないの? とさえ言えてしまうのである。先の小文ではまるでTSUTAYA図書館に嫌疑的、或いは積極的な反対を行っている層が滞在型図書館へクレーム入れてるかのごとく論旨を展開しているのだが、別にTSUTAYA図書館反対派も複合化した図書館や滞在型図書館そのものに対して反対はしていない。しばしば好ましい図書館の姿として他の滞在/複合型図書館を例示し、TSUTAYA図書館との対比を行っている。むしろ滞在型図書館の内、TSUTAYA図書館と称される一連の施設に特有な「直感的な本の配置」(てか、あれ本屋の並べ方に過ぎないのでは・・・?)とT-Point連携、せいぜい食い込んでも「併設されているスターバックスの利用者までも図書館利用者としてカウントする浅ましさ」とかアホみたいに使いにくい高層書架辺りにしか言及していないのである。そもそもの対比もおかしいのであるが(TSUTAYA図書館は滞在型に分類される図書館の中で特に特定の形式を取る滞在型図書館の亜種である)、論旨展開を見ていると正しくない対比で望む結論に持ち込む悪意すら感じ取れてしまう。2P目の以下の文章などが特徴的だろう。
「TSUTAYA図書館だけがとくに業界の目の敵にされていることの核心には、「滞在」を特権視したその設計思想があるように思われる。」

更に以下の一文は、特にどこの話と明記されていないが・・・どこの話だそれ?
「学生や暇のある老人など一部の人を優遇できないという理由から、「滞在」は軽視されてきた。むしろ長時間の「滞在」を難しくするように、図書館の設備は(ホームレスを排除する街のベンチのように)貧弱にされているとさえいえる。」(2P目)
第一号のTSUTAYA図書館である武雄市の図書館ですら、TSUTAYA化する前から滞在型なのである。しかもTSUTAYA化で排除された「子供向けのエリア」まで備えていたのだ! ホームレスの排除も「TSUTAYA化後に、推進者である市長が」ジャージ姿の人がいなくなっただの暢気に放言しているのである(本ブログでお馴染みの「ひわたん」であるよ!)

2P目の最後の方にある以下の文章・・・
「TSUTAYA図書館は、こうした図書館の「伝統」に反旗を翻した。
たんに貸出を目的とする人にとって、それは蔵書も貧弱で、本も探しにくい図書館でしかない。」
2000年ぐらいから始まった滞在型図書館への順次移行は別にTSUTAYAが主導して行ったものではないし、貸し出し特化と言う50年来の指標からレファレンスへの力点移動に対して「反旗を翻した」のがTSUTAYA図書館である。問題解決型図書館という目標に対して「本読んでコーヒーでも飲めばいいじゃない」のお気楽施設がTSUTAYA図書館であり、そんなもん本借りて喫茶店に行けって話ではある。貸し出しは兎も角「調べ物に対して使えないことこの上ない」のが問題だと何故気が付かないのか。

3P目からはTSUTAYA図書館が実のところトレンドに乗ってるとか言い出すし、なんかもう論旨が一貫しなくて大変に知性を疑ってしまうのだが・・・・専門が図書館関係ではないから事実関係に誤認があるのはある意味ではやむをえないと言えるだろう。そこは情状酌量の余地がある(でもさ、学者なら正確を期す為に文献調査しようよ・・・・TSUTAYA図書館では調べられなかったのか?)
しかし論旨展開がアヤシイのはどーにも「学者としての適正」部分に疑問符が付く。時系列も無茶苦茶だし。

貸し出し偏重 → 無料貸し本屋議論 → 滞在型への移行と指定管理制度 → TSUTAYA図書館化問題

この流れのはずである。指定管理者制度はもう10年以上前から導入されており、今は既に「安易な指定管理者制度は公共施設にそぐわない」と言われている段階である。消費財云々の部分は筆者の専門と関わっているのである程度は理解できる部分はあるが、専門外になるといきなりコントロール不能になるのは何とかならなかったのだろうか?

4P目ケツのほう(お察しの通り、私もいちいち指摘するのがめんどくさくなってきた)
「たしかに分類や蓄積を軽視することで、それらの図書館は叩かれることもある。」
これらの図書館ではなく、TSUTAYA図書館であろう。わざわざ別分類こさえて苦労を増やす公共図書館は少ない。あえて言えば国立国会図書館ぐらいである(あそこはNDC使ってない)

個人的にこの文章、誰とは言わないC^3(仮名)がまたぞろ良く分かんない新鋭の大学研究者に記事発注したんではないか的な疑念を抱いているのだが、文体とか言葉尻でチテキを感じ取って内容精査せずにGoサイン出してないか。確かに私なんかは「提灯記事書かせるならもっとマシなの選べ」と文句垂れたりしたけれど、マシってのは肩書きのことではなく論旨展開とかその辺の話だぞ?

なんでまたこんなのを・・・・選書も出来なければ提灯記事の良し悪しも分からんのか。もう少し本気出してくださいよ・・・・これが限界ですかぁ?

ダミー本の話

なんぞTSUTAYA図書館界隈でダミー本に金かけスギィ議論が巻き起こっている模様。それだけならまだいいんだが、そっから派生してなんやメンドイ事になってるみたいなんで夜中の3時にアイポンをポチポチする事にする。

まずダミー本の件ですが。そんな金あるなら本を買えというのは大変良く分かるが、では図書館の館内装飾はどこまでが適切なんだろか? ぶっちゃけ内装に金かけるのがNGなら広い吹き抜け構造とか強化ガラス貼りまくりとかも無駄ではあるわな。それらに対して「そんな事する金があるなら…」と言う批判も成り立ってしまう。TSUTAYA図書館は何故か高い書架とか詰まった本がカッケーと思い、最初の頃はそこに実際本を詰め(なお、埼玉ラーメン本や浦和レッズの古本沢山買った模様)、後に「それ不便やん」って事でダミー本を詰めるようになった訳だ。

んでね、実際ダミーなんだけど「死ぬほど本が詰まった書架」をカッコイイと思う人はいる。これは厳然たる事実だし、その事自体を批判するちゅーのは他人様の感性に難癖付けるようなもんで、感性の範囲まであーだこーだ言い始めると話がなおのことややこしくなる。そんな意味でおじさんは「ダミー本で金無駄にして!」って批判は如何なものかと思ってる。
ダミー本で棚埋めるってのの何かなー?的な部分は、むしろ「なんでどこも判で押したみたいな形にしたがるんだろうか?」という点に興味がある。何箇所かTSUTAYA図書館できてるけど、導入自治体の市民や議員は「本が詰まった高い書架があると私腹…いやすまん、至福だった…な人」なんじゃろか?

神田神保町の書泉ブックマートだかの漫画階は壁面一面に漫画詰まってたが、実際問題目視辛いしハシゴ必要だしで散々だったぞ。そーゆーの見てムカついたり困ったなぁと感じた人はおらんのだろうか? 例えばそこで話し合いがあり、6尺ぐらいの本棚入れるが最上段は飾りにするとか、いやここは未来に向けて余地があるみたいなメッセージ性を…と話し合うならまだ分かる。TSUTAYA図書館導入自治体で、そーゆー話とかした事あるんか? 設計から運営から丸投げしてない?

この間オープンした高梁市のTSUTAYA図書館でも、Tポイント連携しないみたいな話だったのがいつの間にかポイント付けててたまげたわ。自治体側が委託業者コントロールできてないやんけ。自治体が手綱握らないなら、そんなん公共施設として税金で運営したらいかんよ。自治体、つまり住民がコントロールできないなら、そりゃ既に公共施設では無くね?

ダミー本絡みの話、私はダミー本買うことよりも、なんでまたダミーなのか、どんな感じで意思決定したのか、ていうかお前ら、森友とかで国の予算とかちょろまかすと意外なタイミングで金返せ言われるの見て怖いなーとか思わんのだろうか? なんて風に見てる。

国だって自治体だし、自治体だから住民がコントロールできるはずなんだぞ。

変化の兆し?

タグ

,

世間ではツタヤ図書館絶対反対派と思われていそうな当ブログ管理人だが、正直なところこのブログ開設時から申し上げている通り、実際には図書館の運営をCCCが行おうがTRCが行おうが直営であろうが「それが結果として良い図書館運営に繋がるなら」どーでもいいと考えている。

現在CCC運営図書館において困るなぁと思っている部分に関してはこちらに列記した。逆に言えば(これは推奨項目ではなく最低限の「やって欲しくないところ」ではあるが)条件が満たされればCCCが図書館運営を行っても良い。少なくとも私はそれに対して理解を示すし、運営次第では許容する。最低限の要求以上の部分に関しては各エントリーで色々と駄文を綴っているのでそちらを参照して欲しい。無論それらの「こうあって欲しいなぁ」はツタヤ図書館にだけ求めるものではなく、およそ全ての図書館に求めて行きたい部分でもある。

と前置きをして筆をすすめよう。
これまではCCC運営図書館の下駄履かせ記事というか、「これ、どー考えてもCCC側が委託してブロガーに好意的紹介記事書かせてんじゃねーの?」と疑念を抱いてしまう「どっかの人々のBlogの中でもツタヤ図書館に肯定的視点で書かれたもの」は、論旨が頓珍漢だったり(図書館に対して図書館として当たり前のことが称賛ポイントになってるだの、図書館評価において図書の事が全く触れられていないだの)、そもそも文章が下手糞だったりして「諸君は何をしたいのか?」と問い詰めたくなってしまうものが多かった。実際Twitterでもその辺指摘していたりするが、正直な話「お話になりませんな」としか表現しようがない。*1

ところが、高梁市においては若干風合いが変わってきた。*2
これまでは「俺図書館好きだしぃ~」とか書いたり言ったり言外に匂わせたりしてる割には文章が下手糞だったり論旨構成がおかしかったり、そもそもの評価軸が異次元だったりした(この異次元さがステマに見える所以である。へんてこな評価軸を持ち出さざるを得ないのがお仕事として良い評価記事を書かされているからのように見えるのである!)

しかし、こちらを読んで見て欲しい。なんとものらりくらりとした文章ではあるが、この人物は今までの様な「ツタヤ図書館を無理矢理良い評価しようとしていた有象無象」とは異なり、少なくとも読ませる文章を書いてる。恐らくはそれなりに本を読みこんでいることであろう。本好きではないかとも推測している。色々な本を読み読者にサービスする精神を持ち合わせていると思う。*3

これまでのツタヤ図書館関係記事とは、風合いが違うのだ。

また、視点が今までのところそんなに悪くない。所々気になる部分というか「ツタヤ図書館を見続けていた私としては気になってしまう」部分が散見されはするが、これまでのメディア、ツタヤ図書館好意的言及記事の中では短い文章の中にTwitterで数回の投稿に分けて延々と突っ込み入れる必要性を感じたものだ。しかしこれらはそこまでは酷くない。
以前私も「物を書き綴るのが趣味の一つである趣味人の一人」としてツタヤ図書館をなんとか好意的に紹介できないものかと四苦八苦してみた事がある。無論それはCCCがステマ依頼してんじゃないかと感じられた有象無象に対して「下駄とはこの様にして履かせるのだよ!」的な嫌味を言うつもりで試みたのであるが、正直その試みは頓挫している。その様な意味でこのBlog書いている方には称賛の気持ちすら持っている。直援的な物ではないがツタヤ図書館を好意的に捉えるにはこんな視点があったのかと驚かされている次第である。(はっきり書くと、己の無能さを痛感したという所だ!)

その時点では「むむ、やりおるな…」と脂汗を滲ませる程度ではあったのだが、その後高梁市の図書館の様子が明らかにされて来ると更なる風合いの違いを感じざるを得なかった。

既にウォッチャー諸氏はご存知の通り、これまでのツタヤ図書館は中央館単館での業務委託を受けることが多く、広域奉仕等には関与しないか無視する事が多かった。要するに俺様のカッケー図書館を堪能しなさーい!といった「お前頭沸いてるのか?」というある種の狂気を感じさせるのであるが、今回は移動図書館も運営し、広域奉仕にも参入するらしい。立ち寄り個所も増やすという。
他のエントリーでも触れたが特に子供は交通弱者であり地域の分館や移動図書館でのサーブが無いと図書館を利用しにくい部分がある。都会であれば図書館の存在が密であるので利用促進はさほど大きな問題ではないが、あえて言えば「田舎」であればあるほど移動図書館や分館等の子供にとっての意味は大きくなる。*4

つい先ごろ完成した図書館内部の写真も各種メディアに掲載されたが、どっかの間抜けがくっそ高い所にまで本を排架しそれを取るために脚立みたいのまで用意していたのに対し、書架自体は天井までの背の高いものではあるが、書架上層部は風景と割り切ってダミー本のみ配置している可能性を匂わせている。

まだ確証はない。

確証は無いが、散々私を含むウォッチャー諸氏に馬鹿にされ(仕方がない、実際バカなんだもん)、批判されてきたところがようやく改善の兆しを見せ始めたと見るのは早計だろうか?

メディアに掲載された写真から各部寸法を類推していたりもするのだけど、正直まだ「低めの書架」でも天板までの高さが高い気はするし(150~160ぐらいかなと。ほんとは120ぐらいまでがえーんちゃうかなと)、最上部に面陳は背の低い人にとって見にくいんでねーか的な部分はある。通路の間隔に関しては割と良いのではあるまいか。しかし大テーブル閲覧席の上からぶら下がってる照明はイマイチだな、地震とかあればあれ接触して破損する可能性が出るぞ。つりさげ長の短いライトかシーリングライトの方が良かったね…
と、まだまだ改善点は挙げられるし、改善されたと言っても一新されたとは言えない状況でもある。改善されたレベルがまだまだ普通に良く考えられた図書館に至らないとしても、これまでのどーしょーもないツタバ図書館そのままやられるよりは「まだマシ」である。地獄の最下層から煉獄に評価が向上した程度ではあるかもしれないが、実際使う人から見たら地獄の最下層より煉獄の方が遥かにマシであろう。
利便性の向上は何時いかなる時でも喜ばしいものであるし、ツタバ図書館よりマシだから改善が不要というわけでもない。どこの図書館でも更なる高みを目指して利便性向上を図るべきではある。私は良い図書館が増えることを望むが、それは水準満たした図書館が増えることを期待するのではなく、全ての図書館が常に「良さ」を求めて邁進し、相互に支えあって全体で歩き続けることを希求する。

だからこそ、今の段階では期待を込めて高梁市の図書館を眺めている。

んで、先に多賀城市のツタバの下駄上げ記事の一つをけちょんけちょんにせざるを得ないからけちょんけちょんに貶したのであるが、この前新しく出た多賀城のツタバ評価記事は少しだけマトモになってた。まだ「お話にならない所が少ない」とか「見方によってはそうと取れなくもない」ぐらいではあるんだけど、正直それは私のツタヤ図書館監視歴の長さがもたらしたバイアスの可能性もある。

大輪の花が咲いた時だけ喜ぶ必要はない。
種が芽吹いたことを喜び、すくすくと丈を伸ばす姿に目を細め、アブラムシを見つけてムキーっとなったり花芽が付いた事に心踊らされ、花開くその時に涙してもいいのだ。CCCがようやく図書館という植物を育てる気になったのかな? ぐらいのものであるが、少しぐらい期待しても良かろう。ダメだったらまた嘆けばいいだけの話だ。

悲嘆にくれることは何時だってできる。

続きを読む